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Vol.1 戦国の世を生きた北摂の武将

荒木村重

 茨木を中心とする北摂地域は、古くから歴史の舞台としても有名です。織田信長に仕え、後に反逆した武将として知られる荒木村重も、茨木にゆかりの歴史人です。北摂池田の家臣から身をおこした村重は、下克上の男らしく巧みに主君を変えながら、摂津統一を目指していきます。信長の上洛を機に、摂津三守護であった池田の池田勝正、高槻の和田惟政、伊丹の伊丹兵庫頭を次々に討ち取り、一五七四年(天正二年)には信長からその才を認められ、摂津守として伊丹・有岡城主となります。和田惟政と戦った茨木市上野町の茨木川のほとりには「白井河原の合戦跡」があり、惟政勢は糠塚(ぬかづか)に、村重勢は馬塚(うまづか)に陣取ったと伝えられています。今ではもはや当時の面影はありませんが、案内板がひっそりと立っています。信長から摂津一国をまかされ意気揚々たる村重でしたが、まもなく反旗を翻すことになるのです。 村重は柴田勝家や羽柴(豊臣)秀吉らとともに数々の軍功を重ね、信長軍団の重臣として急速に上り詰めていったのです。それはまた周囲の嫉妬を買う結果にもなりました。

 一五七八年(天正六年)中国・毛利氏との戦い、大阪の本願寺攻めのさなか「荒木謀反」の噂が飛び交いはじめたのです。この噂が信長の元へ伝わり、それと前後して村重もまた叛意することを本願寺と毛利方に明らかにしました。村重の謀反を改めるよう有岡城(伊丹城)に説得に来た黒田官兵衛が捕らわれ、一年も幽閉された話は有名です。村重は籠城戦で対抗しましたが、戦局を立て直すべく尼崎へ移り戦います。しかし、頼みの毛利の援軍は来ず、内諜者がいたため落城します。追いつめられた村重は、その後海路で毛利領へ落ち延びます。有岡城に残された妻子ら家族と家臣は、信長の命により幼い子供までこくごとく処刑され、それは悲惨を極めたものだったと伝えられています。

 前途有望であったはずの村重は、主君信長に反旗を翻し最後には一族家来を残したまま毛利方に逃げ去ったということで歴史物語の中では卑怯者として語られています。しかし、実際はどうだったのでしょうか。四百年以上の前の史実を追うことは難しく、ましてや村重という男の心の内まではわかりようもありません。信長の非道ぶりに対する苦悩の決断であったかとも思われます。写真は、信長に謁見する村重を描いた江戸時代の版画です。信長が刀の先で突きつけて差し出した餅をほおばっています。思えば、信長との出会いが村重の波瀾万丈な人生の岐路だったのかもしれません。
 
 この後、荒木村重が歴史の表舞台に登場するのは、本能寺の変で信長が明智光秀に滅ぼされ、その光秀も秀吉に敗れた後の一五八三年(天正十一年)になります。

 北摂池田の家臣から身をおこした村重は、織田信長から摂津一国を任され、信長軍団の重臣として上り詰めていきます。しかし下克上のこの時代、信長に反旗を翻しましたが結局その戦いに敗れ、妻子ら家族と家臣はこくごとく処刑され、村重は海路で毛利領(現在の中国地方)の尾道まで落ち延びます。

 この後、荒木村重が歴史の表舞台に登場するのは、一五八三年(天正十一年)になります。本能寺の変で信長が明智光秀に滅ぼされ、その光秀も山崎の合戦で羽柴(豊臣)秀吉に敗れた後のことです。村重は、秀吉に召し出され士官を勧められます。天下人たる足掛かりを築こうとしている正念場の秀吉にとって、かつての摂津国主という人材を手中に収めたかったのでしょう。しかし、村重みずからはこれを断り、仕官は一族の者たちだけに留めます。武士を捨てて茶人として生きることを決心したのです。悲惨な処刑で幼い子供まで殺された村重は戦いの世を憂いたのでしょう。そして、隠居剃髪して「道薫」と号し、茶人として秀吉に仕えました。能を良くし多くの名物茶道具を持ち、利休七哲のひとりに数えられたほどの茶人になりました。こうして村重は、大阪・堺で五十一才の生涯を閉じます。南宋寺に位牌があるとされています。
戦いに明け暮れながら信長の重臣として摂津一国の大名となるも、謀反を起こし敗戦、追われる身となり、後に武士を捨て茶人として生きた荒木村重の人生は、戦国時代らしい波瀾万丈な生涯でした。(完)







Vol.2 戦いに明け暮れた戦国の武将

中川清秀

 京都と大阪の間に位置する北摂地域は、戦国時代の舞台としても有名です。茨木にゆかりの深い武将も数多く活躍しました。その中でも茨木城主となった中川瀬兵衛清秀は、茨木を代表する戦国武将です。清秀は、旧福井村中河原で一五四二年(天文十一年)に中川重清の子として生まれました。幼名を虎之助、後に通称を瀬兵衛といいました。荒木村重に属する「池田二十一人衆」の随一として、その武勇は早くから知られていたようです。その名を世に知らしめたのが「白井河原の合戦」でした。一五七一年(元亀二年)八月に、荒木村重ひきいる池田勢と、摂津三守護のひとりであった和田惟政ひきいる高槻・茨木勢とが、白井河原で激突したのです。
白井河原の合戦に大勝した荒木村重は、惟政を討ち取った勲功第一の清秀に茨木城を預けました。こうして清秀は四万四百石所領を持つ戦国大名に出世したのです。この後、主筋の村重とともに織田信長の配下に入り、各地に転戦して戦果を上げています。

 しかし、一五七八年(天正六年)信長と敵対していた本願寺勢に配下のものが百石の兵糧を渡してしまいます。このことが原因で村重は謀反を疑われ信長に反旗を翻します。村重に従がった清秀でしたが、茨木城を囲まれ降伏しました。再び信長に従い、今度は村重攻める側となります。主君を巧みに変えながら、戦いに明け暮れるのが戦国の世の常とはいえ、なんと数奇な運命でしょうか。村重没落後も、清秀の戦いの人生は続きます。

 かつての主君荒木村重没落後、豊臣秀吉に仕えた清秀の戦いの人生は続きます。一五八二年(天正十年)本能寺の変の時、信長に合流するために待機していた清秀は、備中高松城を囲んでいた秀吉に急報を知らせました。それに対する秀吉からの返事は、信長の生存をほのめかす嘘の内容でした。これは、秀吉が清秀に明智側につくのをおさえ、自分の味方にしようとしたためといわれています。この文書は「秀吉書簡」と呼ばれ、現在も梅林寺に大切に保管されています。明智光秀討伐の山崎の合戦では、清秀は先鋒二番手として大きな活躍をします。

 翌年一五八三年(天正十一年)槍ヶ岳の合戦で、清秀は秀吉軍の一翼として、大岩山の砦を守っていました。大岩山は、左に槍ヶ岳、右に岩崎山、前方に神明山、と味方の軍に囲まれた比較的安全な砦でした。しかし、敵将柴田勝家側の武将佐久間盛政は、ここに奇襲をかけたのです。不意をつかれた清秀は驚きながらもすぐに応戦し、一時は敵を余呉湖岸まで退けました。しかし、最後は力尽き、配下の兵数百名とともに討死。四十二歳の短い生涯を閉じました。清秀の奮闘によって秀吉の軍は陣営を整えることができ、この戦いに勝った秀吉は天下統一への道を進んでいきます。秀吉は清秀の訃報を聞き、涙をこらえきれずに嗚咽したといいます。清秀と親しかった第四世是頓上人は、戦死の報を受けると自ら戦地の槍ヶ岳に赴いて遺骨と遺髪を持ち帰り梅林寺に供養したと伝えられています。











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